スタッフAです。
今回は感情について。

人間の身体はなかなか不便な仕様をしているなぁと思うのが、
肉体的な不調のみならず、
精神的な不調によっても、
仕事のパフォーマンスに影響が出るという点です。

出生時より備え付けのハートではデメリットが多々あるので、
用途に応じて「感情の弾力性ゼロ」のものに
換装させてくれないかなぁと思ったりします。

残念ながら、どこのベンダーも
そういった部品の生産は行っていない(※)ようなので、
自前のハートの仕様をチューニングしていくしかないようです。

(※2016年5月現在)

*

というわけで、
「ネガティブな感情に関して心の反応を生じさせない」、
という方向で課題への解決を試みることにします。

例えば特定の人物であったり、
あるいは特定の事象であったり、
はたまた特定の行動であったりと、
ネガティブな感情を起因させる要因は様々です。

ここで持ち出してくるのが、
「果たしてその対象にネガティブな感情を持ち続けることに合理性はあるのか」
という考え方です。

例えば今まさに通りすがりの人と肩がぶつかって、
そのことに対して怒りを覚えたとして。

自分以外の人にとっては大したことでないかもしれないし、
空腹で気が立っていなければさらりと受け流せたことかもしれないし、
急ぎの用事の最中でなければ寛大な心で受け止められたかもしれない。

ふと俯瞰で考えた時に、
そういった可能性に思いが巡らせれられるのであれば、
そのまま継続してネガティブな心の反応を生じさせ続けるのは、
単純に自分が損をするだけです。

事象そのものが変わらなくても、
それに対する受け取り方を変えることができるならば、
自分が損しないような受け取り方をしたほうが合理的だよね、
ということです。

**

加えて、自分がネガティブな心の反応を生じさせている対象は何か、を考えます。

このケースでは「肩がぶつかった相手」と思いがちですが、
それは正確ではありません。

通りすがりの人との関係性は肩がぶつかった一瞬を持って終了しており、
そこから先は急速に「過去の人」へと変遷していきます。

にも関わらずなぜネガティブな感情が発生し続けているかというと、
自身が創りだした「妄想」に対して心を反応させているからです。

妄想じゃなくて事実じゃないか、という反論をしたくもなりますが、
目に見えたり皮膚で感じたりするありのままの感覚以外はすべて妄想です。
ブッダというような人がそんなニュアンスのことを言ってた気がします。

(違ったとしても苦情は受け付けておりません)

***

肩がぶつかった相手がどう考えているかという「事実」を知るすべはありません。

「悪いことしたな」、かもしれないし、
「わざと当ててやったぜ」、かもしれないし、
そもそも当たったことに気がついていないかもしれません。

であるならば、
自身が勝手に「肩をぶつけてきた嫌なやつ」像を創りあげて、
それに対してネガティブな感情を生み出し続けるのは、
暖簾にエルボーを繰り返すかのごとく非生産的かつ非経済的で、
まったくもって非合理的な対処の仕方ということです。

ネガティブな感情が湧き上がってきたら、
「この感情の対象は何か?」
「自身が妄想を創りあげていないか?」と立ち止まって考える。

「今見えているもの」「今感覚として感じているもの」に
意識を集中させることで、マイナス方向への心の反応を抑える。

そういった対処の仕方が建設的であると考えます。

****

ここまで僕なりのネガティブな感情への向き合い方を述べてきました。

上述のような向き合い方を心がけてきたおかげで、
僕は、これまでどんな感情の波に見舞われても、

 

「夜中一人で残ったオフィスで奇声をあげながらバランスボールを蹴り飛ばす」

くらいで治まっています。

調子がいい時は2個まとめて蹴ります。

感情論的な話をしている時に、
合理性云々の話を持ち出してくる人物には「うるせぇ」と言います。

こちらからは以上です。

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